嘉応の強訴について

「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、傘下の春日・日吉神人は春日の神木・日吉の神輿を奉じて入京し、朝廷に国司の解任・配流を迫った。

これに対して朝廷も、僧位・僧官の昇進権を媒介に上級僧侶を組織して、宗教界への支配を強化しようとした。保元元年(1156年)閏9月の「保元新制」はその集大成で、寺社の濫行禁止と荘園の規制を謳い、寺社勢力を国家体制に従属させようとするものだった。しかし、これらの寺社統制策は教団内部の反発を買い、寺社では内紛が頻発する。さらに院による恣意的な僧綱補任により、寺院相互の競合・確執も深刻化していた。

Posted by Someone on March 10, 2008  •  Comments (64)  •  Full article

内裏乱入

S12月、尾張守・藤原家教(藤原成親の同母弟)の目代である右衛門尉・政友が、延暦寺領・美濃国平野荘の神人を凌礫する事件を起こす。事件自体は小さなものだったが延暦寺の反応は早く、17日には延暦寺所司・日吉社所司が尾張国知行国主・藤原成親の遠流と目代・政友の禁獄を訴えた(『兵範記』)。成親は32歳の若さで権中納言の地位にあった、院近臣の中心人物である。朝廷側が要求を拒否して使者を追い返したことから延暦寺大衆の動きが激しくなり、22日夕刻には山を降りて京極寺に参集し、強訴の態勢に入った。

この報に洛中は騒然となり、後白河は公卿を法住寺殿に召集して対策を協議させるとともに、検非違使・武士に動員令を下して御所の警備を強化する。平重盛が200騎、平宗盛が130騎、平頼盛が150騎を率いて集まり、「その数、雲霞の如し」(『兵範記』)、「帯箭の輩、院中に満つ」(『玉葉』)という状況となった。

Posted by Someone on March 8, 2008  •  Comments (64)  •  Full article

混乱の要因

後白河は強訴に対して強硬な態度で臨み、延暦寺を抑えようと試みたが、政権内部の足並みの乱れにより事態は迷走した。天台座主・明雲は早くから大衆の説得をあきらめ、公卿議定でも武士の派遣に消極的な意見が大勢を占めた。そして最大の要因が、平氏が強訴の鎮圧を拒否したことである。清盛が出家した際の戒師を明雲が務めた関係から、平氏と延暦寺は友好的な関係にあった。

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